北日本新聞とても素敵な記事を掲載していただきました
商工会女性部のお店も紹介されています・・・
南砺市福光(観音町)(1)かつての歓楽街
■面影色濃く飲食店並ぶ
南砺市福光の観音町はかつて、富山有数の歓楽街として栄えた。今もその面影を色濃く残し、半径わずか500メートルの範囲に二十数店のスナックや飲食店が並ぶ。変わりゆく時代の中、この街を舞台にたくましく、しなやかに生きる人たちを紹介する。
(福光・城端支局長 湯浅晶子)
しばらく離れていた地元の福光に異動のため引っ越し、観音町に通い始めて1年半余り。「全店制覇」はまだだが、連れて行ってもらった店も含め、9割は訪ねたと思う。今では家族のようにかわいがって下さる店もある。
石灯籠が並ぶ大通りをまっすぐ歩くと、坂の上に稲荷神社がある。商売繁盛や家内安全、さらには火よけの神も兼ねる。こうして稲荷様を祭っている歓楽街は多く、細い路地が入り組んだ場で目印の役割を果たしたという説もある。
どのまちにも大抵飲食店が集まるエリアはあるが、普通その規模は人口に比例する。観音町は特別といっていいだろう。人口約1万7千人の福光に、今でもこれだけのエリアが残っているからだ。
どうして福光にこんな場所ができたのか。観音町の食堂「福屋」の主人、細木文夫さん(79)が詳しい。
細木さんによると、観音町はわずか10カ月で誕生した。明治期の福光地域は農業や商業で栄えたため金持ちの町人が多く、まちの各地に料理店などが点在していた。これを当時の政策で川沿いの1カ所に集約。「貸座敷営業免許地」の指定を受け、1900年に営業を開始したのが始まりだ。
10軒もの遊郭が並ぶ様は、まさに「娯楽のデパート」。ピークとなる戦前には約150人の芸者らが働いていたという。戦後は関西方面を中心に、空襲で焼け出された女性が働く場を求めて集まった。
夜には三味線の音が響き、「正月にはみんなぴしっと和服を着て、それは華やかだった」と細木さん。草野球の時に、仲良くなろうと女性たちの方向にわざとボールを転がしたという青春時代の思い出も語ってくれた。売春防止法の施行後、多くの店はバーやクラブ、小料理店などに転業して営業を続けた。
細木さんはまちの歴史を後世に伝えようと、同じ観音町でスナック「カラオケまんぷく」を営む竹中良子さんたちと本を執筆している。町内からは「このまちの歴史を子どもに伝えたくない」との声も上がっているという。だが、2人は「失われゆく記憶を残す最後のチャンス」と話す。完成は来年を予定。開町から120年の節目に出版するつもりだ。
■パワフル女将 息吹き込む 消えかけた老舗料亭の灯に、再び息を吹き込んだ女性がいる。
小矢部川のほとりにある料亭旅館「松風樓(しょうふうろう)」。観音町が開町した1900(明治33)年から、その姿は変わらない。数寄屋造りのたたずまいは国登録有形文化財に指定され、夜は荘厳な雰囲気が漂う。
「あ、久しぶり~」。女将(おかみ)の齊藤美華子さん(55)が迎えてくれた。薄い桃色の着物が爽やかだ。上品な外見から想像もつかないほどパワフルで、興奮するとつい故郷の秋田弁が出るのが面白い。
秋田で売れっ子美容師として働いていた時、4代目の文治社長(53)と出会った。家業は旅館だと聞き、「民宿やってるんだ」と思って嫁いできた。ところが、創業100年を迎えた老舗料亭だった。趣のある構えに面食らったものの、中は薄暗く、客もほとんど来ない。「つぶれてるのかな」と思うほどだった。
店を継ぐつもりはなかったが、先代の女将と大女将が相次いで病に倒れた。「やるしかない」と決意し、店の帳簿を開いて衝撃を受けた。鮮魚店や酒店などへのツケがたまりにたまっていたからだ。
「絶対返す」。その一心だった。まず、館内を占拠していた物を捨てた。数百枚のふとんや着物、たんす…。うっそうとした庭木も自ら屋根に上り切った。
金沢や名古屋の一流料亭に足を運び、女将としての振る舞いを学んだ。「なんだその歩き方は」「着物も着ないとはダラにしてるのか」。「ダ、ダラ? タラの大きいのだべか…」。言葉の違いにも苦労したが、一流を知るお客さんに教わることも多かった。
文治社長のアイデアで、しゃぶしゃぶやすき焼きの食べ放題などを始めたところ大ヒット。若者や家族連れ、女性客も訪れるようになった。ツケを返し終えた時、鮮魚店の人と抱き合って泣いたという。
「一客一亭」のもてなしの心を大切にする。花や軸、音楽など、隅々に配慮を行き届かせる。一方で、客にも「もてなされる心」を大切にしてもらいたいと言う。「二つの心があってこそ日本の料亭文化が生きる。厳しいのは変わらないけれど、この大切な場所を精いっぱい守っていきたい」。きりりとした表情は、立派な女将の顔だった。(福光・城端支局長 湯浅晶子)
南砺市福光(観音町)(4)キャバレー「クラブ白馬車」
■黄金期のにぎわい生む
観音町ではかつて、人々が肩をぶつけあいながら通りを歩いたという。今は人通りもまばら。景気や客足が変化する中、店はどのように姿を変えたのだろう。
街に「黄金期」が到来したとされるのは刀利ダム建設が始まった1961年。翌62年ににぎわいの中核を担ったキャバレー「クラブ白馬車」が開業した。
社長の吉田勉さん(62)=南砺市福光=を訪ねた。物腰柔らかな紳士で、みんな「ベンさん」と呼んでいる。正しくは「ツトムさん」であることを最近になって知った。
白馬車は妻の真理さん(58)の母が創業。全国から集まった建設会社の社員や作業員らが足を運んだ。クリスマスは持ち帰り用のケーキが200~300個用意され、外にはビールケースの塔ができた。楽団や歌手も抱え、政財界の関係者にも広く利用された。製薬会社で営業を担当していた吉田さんは86年、結婚を機に29歳で店に入った。
吉田さんは店を切り盛りする傍ら、積極的に地域の仕事に携わった。商工会や料飲組合、商盛会など多くの地元組織の役員を務め、今は恒例となった小矢部川沿いを彩る桜のライトアップもスタートさせた。「300円のビールを3倍の値段で飲んでもらう商売。お客さんに何を返せるかいつも考えてた」
平成に入ると、集客もそうだが、女性従業員の確保が悩みの種になった。人気の外国人女性は国の規制が厳しくなり、雇えなくなった。さらに2016年のマイナンバー制度施行が追い打ちを掛けた。白馬車での副業を勤務先に知られることを恐れ、女性が集まらなくなった。客の入店を断ることも多くなり、同年、キャバレーとしての営業に幕を下ろした。
約70人を収容できる店が残った。「このスペースを生かして街に貢献できることはなんだろう」。団体予約があったときのみ、宴席場として営業を続けることにした。白馬車で飲んだ団体が他の店に流れてほしい、という考えからだ。
30年余りで観音町の店は半分ほど減った。「核となる人が盛り上げてくれればと思うけど、みんな自分の店のことで精いっぱいだよね」。今も街を思う吉田さんの気持ちが、痛いほど伝わってきた。(福光・城端支局長 湯浅晶子)
南砺市福光(観音町)(5)松月
■のど自慢集い半世紀
この日はスナック「松月」のドアを開けた。「昭和の店」としか表現しようがない雰囲気が好きだ。
「ほら、あきちゃんも」。髪をぴしっと結った“はるちゃん”こと、店主の山田治子さん(79)が花輪をくれた。ちょうど、常連男性の91歳の誕生会が始まった。店にいるみんな、首に花輪を掛けている。スイッチを押すと、ぴかぴか光ってにぎやかだ。
ここはまちののど自慢が集まる店。カラオケから「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が流れる。写真がどうもうまく撮れない。結局、おなじみのフレーズを12回歌ってもらって撮れたのがこの写真だ。「まだけえ~」と言いつつ、笑顔でお付き合いくださった。
松月には客一人一人のレパートリーを記したカードが用意してある。はるちゃんが手書きし、その数は数百枚にも上る。蛍光ペンで線が引いてあるのは、得意だったり、思い出深かったりする曲という。
誕生会のメンバーも、自分のカードを見ながら曲を選んでいる。「東京の灯よいつまでも」「あこがれの郵便馬車」。合いの手を入れつつ、はるちゃんが皿を出してくれる。コヅクラとナスの煮付け、ズイキの酢の物、豆のごまあえ。10席の店内は大盛り上がりだ。
はるちゃんは25歳の時から松月の店主を務める。食堂を営んでいた父が若くして亡くなり、店を継いだ。家業と家を守り抜きたいと、結婚はしなかった。
女手一つで半世紀余り。苦労は多かっただろう。しかし、いつも朗らかだ。「お客さんに育ててもらった。年とって、きかんようになったとは言われるけどね」
はるちゃんはキャッチフレーズをつくる名人でもある。そのうちの一つを紹介したい。“年はとっても、松月のはる。若者に負けず頑張ってます”。体が続く限り、カウンターに立ち続けるつもりだ。
観音町には80歳以上の店主が切り盛りしている店もいくつかある。「恥ずかしいから」と取材はかなわなかったが、「可扇(かせん)」のむっちゃんにもよくお世話になっている。みんなそろって若々しく、そして温かい。会いに行けるときが一日でも長く続くことを願う。
(福光・城端支局長 湯浅晶子) =おわり
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